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僕が「寒霞渓」と名付けたわけ (藤澤南岳「寒霞渓説」(『神懸山志』)より編集部抜粋抄訳)


小豆島には、大きな山が東西に数キロにわたって横たわっており、村々はその山の麓を取り囲んでいます。村々から山頂に至るまでには、各所に道が通っています。瀬戸内海から見るランドスケープは、瀬戸内海において、ひときわ美しくまさに絶景です。この山は険しい岩山を形成し、数え切れないほどの峰がそびえ立って、どれも土がなくむき出しの岩がそびえます。古代に大きな嵐がこの地を襲い、荒れ狂う波が山を打ち付け、土や泥をえぐり取って運び去り、今は骨(岩石)だけ。だから古い松や柏の木が繁茂することもなく、谷間に藤や若い楓が点々と生えています。この風景を、僕の友人の冲堂くんは、こんなふうに言ってます。

「五歩歩けば、景色が変わり、十歩歩けば、また異なる風景が広がる。まだ一つの峰が過ぎ去らないうちに、次の峰が姿を現し、さらにその後から新たな峰が繋がってくる。ひとつの峰が分かれて数多くの峰となることもある。まるで人が帽子を載せているような形をした峰もある。これこそがこの景色の魅力なんです」。まさに、これが見たくて、多くの人々が訪れて遊びに来るほどの名所になっています。

 小豆島に住む、中桐絢海くんと森遷くんが、谷の入り口に草堂(小さな休憩所※のちに紅雲堂)を建てて、訪れた人々が途中、雨を避け、疲れを癒せる場所を作った、って友人の冲堂くんから手紙をもらったんです。中桐くんと森くんの二人は草堂を建て、これにイケてる名前を付けよう!としたのですが、そもそも、この場所の素敵な名前がないって、悩み始めたらしいんです。「鍵懸(かんか)」「神翔(かんか)」「浣花渓(かんかけい)」ともこれまで呼んでは見たものの、どうも音や意味がしっくりこない。それで素敵な名前をつけてほしいと僕に頼んできたのです。

 僕もこの場所を訪れた時、ちょうど11月下旬の頃で、冷たい霜が降り、草木は寒々としていました。谷の岩肌は風で冷たいのですが、空には紅葉で真っ赤に染まった霞が漂い、足元にも赤い霞が広がっていました。その風景に、自分が身も心も、まるで墨絵で描かれる仙人になったような気分!この霞は、春の暖かな陽気の中に浮かぶものではなく、このすこし寒い季節にこそ現れるのです。寒さが厳しくなるほど霞は濃くなり、霜が深く降りるほど霞は赤く輝くのです。

 そこで僕は「寒霞渓」と名付けました。この神さまや仙人のいかにも住んでいそうなこの場所に、「寒霞」はその意味合い、音、字面も、ふさわしいのではないかしら。立派な草堂を作り、疲れを癒す場所をつくって訪れる皆さんをもてなそうとしている二人なら、きっと気に入ってくれることと思います。 Profile

藤澤南岳(1842-1920)

泊園書院第二代院主。天保13年(1842)生まれ。慶応元年(1865)、

24歳で家督を継いで高松藩の士分に列せられるとともに書院を主

宰する。慶応4年(1868)、高松に戻り、藩の方針を佐幕から勤皇へ

と劇的に転換させて藩滅亡の危機を救う。明治新政府の出仕要請

を断り、明治6年(1873)、32歳の時、泊園書院を大阪船場に再興。

南岳は当代随一の学匠として名声高く、全国から学生が集まり、書

院の黄金期を作った。学んだ門人は五千人を超えるとされ、関西を

代表する文化人として活躍した。

(関西大学泊園記念会「泊園書院」パンフレットより)

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